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教育における人権


職員室のガラス戸棚のなかに、『人権教育』というちいさな文字の背表紙が見える。それを見ていて、人権教育を出来る教育がここにあるのだろうかと思う。必要なのは『人権教育』の前段階、『教育における人権』についての考察、検証、実践。その前には、人権とは何か、ということを考えようとする意欲が必要なのだが、これが一番むずかしい。『人権教育』への道は果てしなく遠いことを思い、溜息が出てしまう。

しかしそんなことを言っていてもはじまらない。単位は一だ。まずは自分が教師としての自己の欺瞞をどう検証するのかということだと気を取り直して考えはじめる。そして今日、思いがけなく二冊の本に出逢った。探しているときには向こうから声をかけてくれるのが本というもの。本屋で求めたのは、ちくま新書、戸田忠雄氏による『公務員教師にダメ出しを!』と、岩波新書、西原博史氏による『良心の自由と子どもたち』だ。

先週から『子どもの権利条約』の本を読み返していて、物言えぬ存在とならしめられている子どもたちに対して、あなた方には、こんな権利があるんだということをきちんと話せるようになるためにも、勉強しなければと思っている私にとってはもってこいの内容で、すぐにレジに並び帯に支払い済みのテープを貼ってもらい、近くの喫茶店に入り読みはじめた。こんなタイトルの本を職員室の机に(しかも週一回来るエライ方からお借りしている机)に置いて教室にいこうものなら、どんな目で見られるだろうかと、ちょっといたずら心が湧いてきた。

教育という名のもとに置いて侵害され続ける子どもの人権、この際、教職員である私の人権を後回しにしてでも、まずはこちらに目を向け、手をつけなければという思いが気持ちに焦りをもたらす。焦れば焦るほど、学校という組織のなかでの動き方にミスを犯しがちなので、ここは慎重にとも思い、時間がない、子どもたちの一日は私たち大人の一日とは重みが違うとやはり気が急いてしまう。慎重にそして怠けずに、作戦を練ることが必要だ。どう動けばどう跳ね返ってくるのか、それが子どもに振りかかるものであっては絶対にならないのだから。

悪意

このごろ身近でいろいろなことが起きている。舞台は学校だ。

教師のやり方が気に入らない、と教育委員会に怒鳴り込んで
担任をかえろと言う保護者に対応しきれず、担任は病休となり、
新しい担任がクラスをひきついだ。

部活動で、生徒同士の喧嘩が発端となり、責任を取った生徒が
練習に復帰したところ、相手の保護者がそれにクレームをつけ、
退部させないならうちの子を退部させる、と言って押し切った。

両方とも、私の近所の学校で実際にあった出来事だ。
悪意は、脅しと相手の弱点を巧みに付くという姑息な手段で、
解決への道を敢えて避けながら、自己の目的を達成しようとする。

大勢の人間が集まる学校において、親と教師、親と親、教師と教師、
さまざまな対立が悪意によって生じ、関係性の修復に努力する意思や
そのための智恵を出し合うという作業を放棄するという最悪のシナリオだ。

悪意。
悪意に立ち向かうには多くの善意が結集するしかない。

悪意に悪意を持ってさらなる対立を生むのではなく、悪意に対してどう対処し、
最優先すべき目的は何か、それを実現するために最適な方法は何かを
注意深く辛抱強く探りながら、行動していくための多くの善意。

たとえその場において悪意に屈したように見えたとしても、
最終的な目的を達成し、悪意が更なる悪意を生み出していく状況を防ぐことが
悪意と相対したときの最も有効かつ強力な道であると信じたい。


失敗と成功

学校のなかで行なわれた行事等について、総括というものを行なうことがある。
その行事を創りあげるまでの過程すべてについて検証を行なうというものだ。
そして、失敗だったか成功だったかを自己や他者が「評価」することとなる。

しかしここでいつも疑問に思うのは、大きな時間の流れのなかで大勢の生徒が
さまざまな活動を通して積み上げたすべてが「行事」という総合体になるなら、
それをひとつのものとして、失敗、成功という「評価」という結果でくくってしまう、
それでいいのだろうかといつも思う。

ひとりひとりにドラマがあり、成功だった、失敗だった、などという言い方で、
そのドラマひとつひとつに「評価」を下すことができるのかどうか。
私はその点について、深い疑問を感じてしまう。

例えば我が子が今年入学した学校で、先日学園祭があった。
保護者会において、反省や評価がなされた。
しかし我が子の親としては、家で蹲っていた我が子が、友人らに囲まれて、
ファンションショーなる企画に出演したらしい、という話を伝え聴いただけで、
それは「大成功」だったのだ。

「行事」は教育の「作品」ではない。
教育は「作品作り」ではない。
「教育」も「行事」も主役である子どもたちひとりひとりの舞台に過ぎず、
失敗も成功もすべてひっくるめた処で、あがき過ごした時間を丸ごと肯定することが、
「教育」の総括であると信じている。

根は深い

根っこを探して掘っているけれど、掘れば掘るほど根が深いことを感じざるを得ず、
いったいどこまで掘ればいいんだと途方に暮れる。違う根っこを傷付けないように
この間観た芝居『MOON』の中の台詞「敵を間違えるな」が頭のなかでこだまする。
だが、これはどの根なんだ?と識別できない根っこに次々とぶち当たる。嗚呼。

このあいだ、職場でこんなことがあった。
雨の予報がある日は車で通勤していたのだが、体育倉庫の横に車を止めた瞬間、
むこうから校長がやってきて、臨時職員に車通勤は認められていないが、トクベツ
許可しているだけなので、なにか言われたらシラバックレテくれ、と言う。

あたまのなかでゴングが鳴った。交通費いただいていないのにですか?と即答。
教員ならともかく、市の職員はみんなダメ。(教員と同じ仕事をしてるのにか?)
話にならない、わかりました。そういうことでしたら、今後一切車では通勤しません。
そういうことじゃない、こっそりやってくれと言うだけのことなんだからと校長。

その場でもめるのもイヤだったし、これは時間をかけて作戦を練ろうと思い直す。
そして翌日、「臨時職員 ○○○○ の勤務に関する確認書」と題して、文書作成。
1 勤務手段 自動車通勤 不可 2 机 使用不可 3 ロッカー 使用可、不可
(いずれかにチェックを願います。現時点で未確認です) 4 下駄箱 使用可

4つ目の下駄箱はおまけだったが、1~3は真剣だった。たったこれだけのことが
市の臨時職員にとっては、いちいち確認しなければならないことなのだということ。
自動車通勤は他の職員の好意で駐車場の場所も確認済みであったのだが、
この文書を見て、校長は慌てた。こういうことはあやふやにしておくことだと言った。

条件も提示せずに雇用する問題について口にすると、こんな条件では人が集まらない、
こんな条件で働いている私を目の前にして校長はそうのたもうた。驚き以上だ。
だからあやふやにして、こっそりやってもらってる、と。だからあなたも、と言い、
あなたのおかげで我が校はやっていけている、感謝していると持ち上げる。

やっていられない、話にならん、と思ったとき校長室の電話が鳴ったので、
それじゃあ、と私は部屋を出た。勤務に関する確認書を校長室の机に置いたまま。
校長はそのあと、市からの給与明細書に重ねてその紙を私に返してきた。
当然のことながら、私はそれ以来、車に乗っていない。台風が来たって乗らない。

自分というブランド

ブランドについて考えている。
ブランドとは何か。手元の国語辞典でひいてみる、標章と書いてある。
そのあとに書いてあるアルファベット、brandを今度は英語の辞書でひくと、
そこには標章のほかに、焼き印ということばが待っていた。
焼き印とは、その製品の品質や製造所を示すもの。
そしてもう一つ、烙印、という意味もある。
罪人に押した烙印、汚名だ。

ブランドとは何か。
ひとはブランドを求めたがる。
そのことで安心しようとする。
ブランドという椅子に座って安らぎたくなる。
それはバッグや洋服のような物であったり、
学校のような所属であったりする。
ブランドに依ることで自分の価値を引き上げようとする。

外から持ってきたもので自分の価値をあげることなど出来ない。
なのにひとがブランドにこだわるのは何故なのだろうか。
それはそのブランドを差し出したときに得られる対外的な印象の明確さが、
自己の価値を表現するのに役に立つからだろう。
しかしブランドは所詮借り物の服である。
その服を脱がされたときに残るものを持っているかどうか、
それはまさしく自分というブランドを持っているかどうかということだ。

差別の現場から

学校にいる以上、教師は権力者になってしまう。
子どもにルールを学ばせれば、それは教師のしごとと言えるが
子どもにルールを守らせれば、それは権力者の仕事となる。
その境目にはっきりとした線はなく、ひとりひとりの教師の自覚と認識を
信じるしかないというのが今の学校の現状なのだ。

ルールを守るための意味や気付きを子どもとともに学ぶ時間を作ることができれば、
ルールは生き、自由の意味も自ずから豊かさを湛えていくことだろう。
しかし、数多くのルールを子どもに強いれば、それは意味のわからないものとして
自由はおろか、子どもが生きるためのやり方を探る力さえ奪ってしまうだろう。

ここ数日、大分県の採用試験に関するニュースがテレビで取り上げられ、
教育関連のニュースとして、幼稚園における保育士の幼児虐待や、
教員の質についての話題がこれでもかと取り上げられている。
それを見てなにも驚かない自分に驚く。
こんなこと日常茶飯事だ、とつぶやいている自分にがっかりする。

子どもが、ひととして尊ばれるような時間を学校に取り戻すためには、
親や教師が豊かな人間性を取り戻せるような環境を、一刻も早く整える必要がある。
親や教師のゆがみを、全身で受け止めてしまうのが子どもなのだから。
大きな力で押さえつけられ、生きる力を奪われてしまうような子どもたちを生みたくない。
教室でふっと頭をよぎったことば。それが「差別の現場から」だった。

上意下達の現場から

公立の学校には、まだ日本国憲法が公布されていないのではないか。
それに似たことを、遠山啓が著作のなかで書いていたのを見つけて嬉しく、
一方で、遠山啓がその文章を書いてこの30年近く経った今になっても
教育現場は変わっていないどころか、どんどん悪くなっていることに対して
虚無感を覚えてしまう。

勤務している公立小学校に、6月から文部科学省の嘱託職員が配属された。
なんでも「小1問題研究特別事業」とかで、うちの県に10人しか配属されない、
トクベツな事業の研究員だということだったが、それが知らされたのは、
配属のたった2日前だったというのは、驚きだった。
拒むことも、話し合うこともできないぎりぎりの所で現場はそれを知った。

当然のことながら現場は混乱し、子ども、特に研究対象とされる児童は、
はっきりとした混乱を見せ、それがもうすでに一ヶ月も続いている。
私たち教職員は、子どもの混乱を最小限に抑えることを最優先に考えながら
その研究事業をどのような位置づけで受け入れるのかということについて、
悶々とした日々を過ごしている。管理職命令の唐突さと安易さに辟易しながら。

教育現場には、上からの指示というものが絶対的な力を持つという性質が、
戦後50年以上経った今も厳然と残っていて、戦前の権力構造の生き残りが、
軍と教育だ、と遠山啓は言っている。
上意下達、という言葉に象徴される今の教育現場に民主主義は無いのか。
その過酷な環境で、子どもたちを守るために命を削っている教員がいる。

無関心という悪意

娘の学校には、貧困と生存についての学びとして、
「生きさせろ」というテーマを掘り下げているひとたちがいて、
昨晩、秋葉原で起こった事件についての討論会をTVで観るきっかけを得た。

派遣という雇用形態、低賃金と低待遇による雇用によって、
どれだけのひとたちが憲法で保障されているはずの生存権を侵害されているか。
それは、私の職場でもまったく同じ状況だ。

かく言う私自身が、パートタイマーであり、短期契約であり、
正式な雇用のうえで仕事をしている同僚とは何もかもが異なっている。
そんな職場で仕事をしながらいつも思うのは、
想像力の欠如と、他人に対する無関心。

何故?という疑問から生まれる学びが、安定した状況の人たちには
生まれにくいような気がしてならない。
秋葉原の事件の裏側にある社会的背景を考え続けることは、
きっと無駄にはならないと思う。

それは無関心とは対極にある事柄だからだ、
嫌悪や攻撃よりもずっと悪意のある関わり、それが無関心。
無関心がはびこってしまったとき、その社会は終わってしまうのではないか。
その無関心という生きていく「智恵」を教えるのが教育だとしたら。
学校の門を出ると、途方に暮れてしまうのは私だけだろうか。

「立場」が隔てるもの

学校には、さまざまな立場の職員がいる。

校長、教頭、教務主任、正教員、事務職員、校務員
新任教員、新任教員指導教員
臨時採用教員、パート職員、派遣職員、
県や国から派遣されてきた各種教育事業の嘱託職員

産休代替の教員や、病休代替の教員、
「自校式」という昔ながらのいわゆる「給食室」のある学校においては、
栄養士、調理職員、パート調理職員、
警備員、警備パート、ボランティア等々、
学校は数え切れないほど立場の異なる職員で構成されている。

              *

私は今年4月8日付けで、市内のある小学校に派遣された。
支援教育(これまでの障害児教育)のためのパート職員で、
自給1200円、1日5時間以内勤務、交通費無し、3ヶ月契約というもの。
支援の必要な子どもに付いて、必要な補助を行うのが仕事だ。

当然のことではあるが、子どもが学校にいる間に自由になる時間はない。
辞令に記されている昼休み30分は、まさに絵に描いた餅だ。
しかしその時間は休憩時間として換算されるため時給に含まれない。

そのほか、所属学年の横のつながりから来るさまざまな仕事、
例えば登下校の子どもたちの指導や他クラスへの応援、補助が入り、
教材研究、記録など、個人レベルを含めると仕事は限りなく目の前にある。

この条件と状況のなかで、どう仕事をしていくのか。
これが最初の2ヶ月、子どもとの関わりとは別に、考え続けてきたことだった。
賃金、勤務時間などの雇用条件、勤務中の待遇などの勤務条件、
その違いを飲み込みつつ、同じように教育に携わっていることの矛盾。
教育者は労働者であり、技術者であると言ったのは、敬愛する遠山啓だ。

教師はその複雑な立場のなかで日々子どもたちと格闘している。
「保護者」という立場のひとたちとの連携を模索しながら。

先日、わが子がお世話になっている学校の保護者役員会に出席した。
公立学校にはない民主的な精神によって子どもに学びの場をと、
先の遠山啓が唱えた教育の精神を形にしようと走り続けている学校だ。

私は教師と保護者という二つの立場でそこに座っていた。
置かれた「立場」の違いが生み出すもの。
それが、不信感や対立でないことを祈りたい。
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評価はしない

なぜ自分はこんなに教育にこだわるのか。
そのことを考えすぎて、この週末は頭の中のスキマが無くなる位だった。
子どもの学校の保護者の会議、自分の職場の会議、
いろいろなことがいっぺんに押し寄せてきて、わかったことがある。

どうして私はあの時勤めていた学校を辞めたのか。
その理由のひとつに、子どもを「評価」することに嫌気がさしたという事がある。

わたしがともに過ごしていた子どもたちは「障害児」と呼ばれ、
その障害の種類も重さもひとりとして同じ子どもはいない養護学校に通い、
24時間親や教師やボランティアやそのほかもろもろのひとと関わっていた。

それは「保護」であったり「管理」であったり「教育」であったり、
その関わる人間の立場によって様々な認識で捉えられるのだろう。
わたしは「学校」という場所の「教師」という立場で子どもたちと関わったため、
その関わりは「教育」となり、その仕事の一部として「評価」という作業が存在した。

私は評価が苦手だった。
苦手というよりキライだった。
理由は明白、自分が評価される対象になることに耐えられないからだ。
自分が耐えられない行為を相手にする。
そんなことは到底考えられない。

大学で障害者福祉を学びながら、当時「特殊学級」と呼ばれていた学級や、
「普通学級」と呼ばれていた学級のなかで学ぶ障害を持つ子どもたちと関わり、
教師というより、介助者として過ごした時間は私にとって幸福だった。

その子どもたちへの厳しい社会の現実と子どもの生きる姿を両手に、
ときに怒り、ときに泣き、ときに笑った日々から「養護学校」への転職は、
思った以上に大きなチャレンジだったと今になって思う。

障害者と健常者。言葉狩りを怖れずに言うとすれば、
その溝を限りなく埋めていくためには、共に育ち共に生きることで起きる摩擦を
あえて求めていくことが必要だと思っていた自分にとって、障害を持つ子どもが
そうでない子どもや大人から分断された生活を送っている「養護学校」という場が
とても窮屈で矛盾に満ち、自分自身の呼吸さえも危うい場所だったように思う。

子どもを発達というものさしで計り、評価し、教育という大義名分で分けることに
体が悲鳴をあげだしたのが秋。担任を持った子どもたちと学年途中で別れられず、
学校をあとにするまでの数ヶ月は、私にとって死に近く、子どもの存在だけが救いだった。

職を辞してからこの春「普通学級」の介助者として学校に戻るまでには、
20年の時間が必要だった、と過去形で語れることに今は喜びを感じている。
介助者は、教育という関わりを持つことなく、「評価」をすることからも免れる。
原点にもどって考えてみると、私のなかのすべてのモノサシが、
障害を持っている子どもを基準にして動いていると言っても過言ではない。

わたしはひとから評価されない。
わたしもひとを評価しない。
他者を評価できるほどの力をひとは持っているのだろうか。

我が子が通う学校の保護者会議において、評価についての話が出たときに、
考えていたのはそのことだった。


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